明治時代の迷信集100選

明治時代の迷信集100選 迷信

明治時代「東京朝日新聞」にて連載された迷信について書かれたコラムです。 明治時代ですので古い言葉遣いが使われていますが内容は理解できます。

古くから伝わる迷信ですので、興味のある方は試してみてはいかがでしょうか?

 

東京の迷信

「東京朝日新聞」百回連載。明治40年11月3日~明治41年2月16日

 

 

(一)△粂の平内(縁結び、諸願)
浅草公園弁天山下の粂の平内様といへば古来から有名なものだ、至つて六ケしい顔をしてござるが諸願の内の縁結びなどにも御利益があるといふので芸妓などの参詣が中々多い、以前は願書を納めたものでそれが附文やうの封書になつて「粂の平内さままゐる誰より」などゝ記したイケふざけたものであつたが今は絶てなくなつた、堂守は直ぐ向ふの因果地蔵が兼帯してゐる、小さい願ひは絵馬を上げ大きな願ひは鳥居を上ることになつてゐるが、今は場所のないために幟を奉納することになつてゐる、はやりがみの言附を拵へたら差づめ願人の格にあたるのが此古顔の平内さまであらう(「東京朝日新聞」明治40年11月3日)

(二)△鬼坊主清吉(首より上の病ひ)
浅草吉野町円常寺境内東南の一隅に鬼坊主清吉の墓といふのがある、清吉は関東きつての強盗であつたが、天保時代に捕はれて斬罪に処せられてしまつた、其の遺骸を埋たのが即ち此寺なので、諸願の内にも首から上の病に効験が著るしいとある、口上茶番めいて頗る滑稽だ、数年前までは盛んに参詣があつたものだが、強盗の墓を拝ませるのは風紀上よろしくないとあつて、警察署から周囲へ柵を結うてしまつた、所が今以て内々線香を上たりたわしで墓を洗ふ奴がある(「東京朝日新聞」明治40年11月5日)

(三)▲汐時地蔵(咳一切)
一寸毛色の変つたのが深川区西六間堀町要津寺境内の汐時地蔵尊、御丈は纔か二尺許りの小ぽけなものだが、咳の病には非常な御利益があるといふので、近在からわざ/\草鞋穿にて参詣に来るものさへもある、願を懸る時に寺から小さな拍子木をいたゞき、満願の時に借た拍子木へ新調のものを添て奉納する定めになつて居る、拍子木は何のためかといふと、病中の子供には玩弄(おもちや)にさせおき、大人には首へ懸けさせて、例へば咳がコンコンと二つ出る時は拍子木をチヨン/\と二つ叩かせるなどは大いに洒落てゐる(「東京朝日新聞」明治40年11月6日)

(四)むぎぶち地蔵(諸病一切)
つい半歳ほど前までは田圃の中に転つてゐた見る影もない一基の無縁仏、それが流行は/\非常な速力で堂もできるし茶屋も建つといふ勢ひ、今は熱田地蔵尊などと厳格(しかつめ)らしい名が付いてゐるが、以前は百姓が麦を苅つて穂を取る時に此地蔵さまの背中で引つぱたいたものだ、以て如何に虐遇されて居たかゞ分る、場所は南品川の字馬場から大井村へ行く右手の田圃中で、其脇にまた無縁仏の家に附た草茫々たる二反許りの明地が残つてゐる、これを土地の者は病田と称へ稲へ手を附けると祟があると評判を立たのが、抑もの始りだとは馬鹿々々しい(「東京朝日新聞」明治40年11月7日)

(五)▲縛られ地蔵(諸願)
講談や浪花節の大岡政談で其名を轟かした本所業平橋の縛られ地蔵は今も昔しも変らぬ繁昌を極めてゐる、願を懸る時には地蔵の身体を荒縄で縛り付けて好き勝手な願を懸け、いよ/\御利益の現はれた満願の時に其縄を解いて絵馬なり幟なりを御礼に上る願文は一寸斯んな塩梅。 私も本年六月二十三日の夜ぞくなんにあひました、二十一日(ママ)に地蔵様へしんがんいたし候ところ、御りやくにて本月十二日に右の品物をとりました、御礼参りにこのはたを奉納します、みなさんも御しんじんなされたく候(「東京朝日新聞」明治40年11月8日)

(六)▲たんぼとけ(痰一切)
本所法恩院境内の痰仏は近来ます/\繁昌を極め今は千栄院本堂の中に威張つてござる痰に苦むものは一七日の精進をして祈願を籠め、全快する時は御礼として塔婆を上げるのださうだ、寺からは別に御符をくれるが、これがまた人を莫迦にしたもので、罌粟粒くらゐな丹色をしたものを一週間分包んである、痰の病だから多分丹色のものを飲ませるのだらうとは、満更理屈のないこともないやうだ。(「東京朝日新聞」明治40年11月9日)

(七)▲痔の神(痔一切)
浅草山谷の痔の神といへば古来有名なものだ、神とはいふものゝ実は秋山自雲といふ者の墳墓なので、墓石の正面には秋山自雲位功雄霊神と彫付けてある、数年前から見ると参詣も少くなつたが、それでも線香の煙が絶ぬのは豪い/\、迷信の起りは自雲といふ法名から来たものだらうとはいかにも滑稽だ。(「東京朝日新聞」明治40年11月10日)

(八)▲六地蔵(何でも)
以前は浅草花川戸の角に在つたが、市区改正の為めに先年公園淡島の池の前に移された、六地蔵を彫た一箇の石燈籠に過ぎないが、製作は余程古い物で、鎌田兵衛正清の数文字が微かに読まれるさうである、花川戸の時代には邪魔ものとして扱はれたものが、昨今に至り願懸をするものが夥だしいので、上覆の鉄網を張つめてしまつた、番人の婆さん曰く「願は何でもおきゝになります、近頃になつて役者衆や芸者衆が参詣するやうになりました。」(「東京朝日新聞」明治40年11月10日)

(九)▲大久保彦左衛門(諸願)
芝白金立行寺境内の大久保彦左衛門の墓が、咳一切に効験が著るしいといふことは、余程以前より行はれてゐる迷信だが、近頃になつて肺病脳病さては勝負ごとに迄利益があるとの噂が高いので、猫も杓子も参詣に出かけるが、をかしいのは彦左衛門の墓の直裏手に一心多助の墓といふのがあつて、これがまた中々に繁昌して居る、多助が架空の人物たることは、こゝに説明の要もないであらう(「東京朝日新聞」明治40年11月12日)

(十)▲おさんの方(歯痛(はいたみ))
麻布飯倉五丁目善長寺境内のおさんの方といへば、昔は歯一切のはやり神として、飛ぶ鳥も落す勢ひであつたが、其後歯神が諸方へ現れた為、折角の株もめちや/\になつて了ひ、今では稀に参詣があるばかりだ、おさんの方とは備後福山の太守勝成朝臣の室良樹院殿珊誉昌栄大禅定尼のことで、善長寺の実誉が諸国修行の折、福山に滞在中歯痛に悩み、同地の歯神おさんの方へ祈願を籠めたのが抑もの始り、後年に至つて其のうつしを引いたものだとは、いかにも有がたい縁起である(「東京朝日新聞」明治40年11月13日)

(十一)▲披官稲荷(金が儲かる)
浅草公園三社の後に披官稲荷といふものがある、公園内とはいふものゝ、いかにも場所の悪い為に、昔は油揚一枚上るものもなかつたが、穴守其他の稲荷が流行りだした以来、芸人などが名聞の納め手拭が導火となつて、追々に火の手が上りはじめ、昨今は参詣の絶る間もなく、周囲は赤塗の納め鳥居で埋る程の盛況を呈してゐる、扨御利益はといふと不思議に金が儲かり、又勝負ごとにも功験があるとは、何にしても調法至極な稲荷さまだ(東京朝日新聞」明治40年11月14日)

(十二)▲日限地蔵(諸病一切)
市内ばかりにも日限地蔵は数あるが、扨古いのになると何箇もない、其内売込んだものといへば、先白金松秀寺の日限であらう境内には剥落や鼻欠の地蔵が何体となく並べてあるので、始めての人は大に戸迷ひをするが、本尊は御堂の内にちやんと特別待遇をされてござるのだ、願懸は病気一切、何日までに癒して下さいと日を限つて願ふ時は、恐ろしい程の御利益があるさうだから、其ありがたい御影をこゝに示すことゝした、御信心の輩は御拝あられませう。(「東京朝日新聞」明治40年11月15日)

(十三)▲鼠小僧(勝負事)
本所両国回向院境内の鼠小僧と来ては少々陳腐だが、はやり神としては之れでも幕の内株である、人も知るごとく利益はといふと、第一が勝負ごと、其他は病気でござれ縁談でござれ、泥棒だけに何でもかでも掻込み主義だから面白い、墓石の一番欠きが一円五十銭、これは欠く当人が新に建るので、二番欠は十銭の相場、三番欠から以下五銭づゝ、頼みやうによつては三銭でも欠かしてくれる、欲張連が此の石を懐にして無尽の籤などを引きに行くのだ、聞てみると偶には当ることもあるさうだとは心細い。(「東京朝日新聞」明治40年11月16日)

(十四)▲西野文太郎(勝負事)
鼠小僧の墓に願を懸けて利益のない欲張連は必ず谷中墓地内の西野文太郎の墓へ押かける、願を懸けるものは矢張墓石を打欠いて持帰り、首尾よくかなつた時は御礼として線香か花を供へる事になつてゐる、鼠小僧の墓が欠賃を取られるに引換へ、これはまた只といふので一時は非常に繁昌したものだが、何をいふにも場所の悪いために昨今は漸く参詣も稀になつて、時に線香の烟の絶ることもあるさうだ。(「東京朝日新聞」明治40年11月17日)

(十五)▲七浦大明神(金が出来る)
福を司る巳の神の内にも、谷中妙法寺の七裏明神は中々勢力がある。七裏とは不思議な名だから調て見ると、身延の七面を反対にやつ付た判じものなのだ、元来法華坊主ほど人を莫迦にしたものはない、斯んなはやり神を拵らへるのをタクと称し、迷つて来る信者をアンデンなどゝ呼んでゐる、タクとは巧なこと、アンデンとは最も秘密の暗号だが、多分あんぽんたんとでもいふ冷語であらう。(「東京朝日新聞」明治40年11月18日)

(十六)▲人頭さま(頭から上)
谷中坂町本光寺の境内に人頭さまといふ妙な名のはやり神がある、人頭さまとは頭の病に効験が著しいといふ所から起つたものださうで、其実は頸から上の病なら何でも利くとでいひ囃され、数年前までは大繁昌を極めたものだが、近来は付近の七裏や日荷に押されて見る影もない有様となり、近所を尋ねても分らぬほど寂れてしまつた。(「東京朝日新聞」明治40年11月19日)

(十七)▲午の日(油揚が売れる)
午にあたる日は何処の豆腐屋も油揚の仕込みを殖すことにして居る、夫は何ういふ訳だといふと、稲荷さまの供物にするからで、振売の豆腐屋も当日は特に『今日は午の日』と吐鳴(どなつ)て歩く、昔は伊勢屋稲荷に犬の糞といつて、何処の路次内にも稲荷が祀つてあつたものだが、犬の糞と共に近来稲荷も大分減少したやうだ、尚ほ午の日にはいかな降雨も必らず晴るといふ迷信がある、それは跳上(はねあが)るといふ所から来たものだとはお笑ひ/\。(「東京朝日新聞」明治40年11月20日)

(十八)▲日荷さま(足一切)
谷中三崎延寿寺の日荷さまといふは日蓮宗の僧日荷のことで、曾て武州金沢に居た時称名寺の住僧と戯れに碁を囲み、彼寺の仁王を賭物とした、所が日荷が打負けて之を背負ひ、甲州の身延まで登つたのだ、いかにも健脚だといふ所より、扨こそ足の病に願をかけることになつたものださうで、額堂には美術的に作つた草鞋や下駄が沢山納つて居る。(「東京朝日新聞」明治40年11月21日)

(十九)▲大安売(風と虫)
風邪の呪(まじなひ)に『大風大安売』と書て羽目ともいはず電信柱ともいはず貼付けて歩く迷信がある、また虫除けの呪に『虫大安売』と書たのを折々見受けるが、をかしいのは芝の新堀町の通りに『虫の安売一合五銭』とあるのだ、所が一町許り行くと『虫大安売一合一銭』といふのがある、之が何れも半紙二枚接ぎへ筆太に記してあるので知らぬものは螽でも売るのかと思つて、近所を聞合はすとは滑稽だ。(「東京朝日新聞」明治40年11月22日)

(二十)▲甘酒のをば様(咳一切)
小石川第六天町日輪寺の境内に、甘酒のをばさまといふ妙な名の石像がある、近来繁昌を極めて居るが、効験は咳一切とあつて、御花客(おとくゐ)は子供に限られてゐる、祈願中は毎日甘酒を上るので石像の周(まはり)は竹筒や正宗の空壜が夥だしく、また傍らの溜箱には患者の使用した茶碗や盃の破片(かけ)が堆積して、其の穢(むさく)ろしいことはお話にもならぬ。(「東京朝日新聞」明治40年11月23日)

(二十一)▲石ころと瓦片(無尽の呪)
他所の銅壺の蓋を密(そつ)と盗んで来るなどは、無尽の呪(まじなひ)でも怪しからんが、これは一寸愛嬌のある方だ、往来を歩いて居るとよく下駄の歯へ石ころや瓦片(かはらかけ)が挟まることがある、之を持帰つて神棚へ上て切火をかけ、人知れず懐中深く収めて無尽の席へ出かけ一心不乱に祈念を凝しつゝ籤を引く、若(もし)当らぬ時は何うかといへば、それはまだ信心が足りぬものと諦めるのだとは、随分ふざけた呪だ。(「東京朝日新聞」明治40年11月25日)

(二十二)▲蛭石(歯痛の呪)
甲州から出る蛭石といふものがある、硫黄を含んでゐるので、火を点るとニヨロ/\と延上(のびあが)る、之は日蓮上人が蛭を封じたといふ迷信があつて、歯痛に悩むものなどが、有がたがつて用ひて居る、元来蛭石といふは一種の鉱石で、甲州を始め秋田其他からも沢山産出する、数年前までは子供の玩具として、各所の縁日に売つて居たものだ。(「東京朝日新聞」明治40年11月26日)

(二十三)▲瘡守(かさもり)いなり(黴毒(ばいどく)、腫物(できもの))
瘡守の二字を戴いてゐる稲荷さまは、芝の公園を始めとして、市内の各所に数あるが、流石に谷中が本家本元の古株だけに、名も響いてゐれば御利益も炳然(いやちこ)ださうで、フガ/\連の参詣絶る間もなく、少々天気の好い日などには、白粉(おしろい)臭いのが盛んに押かけるさうだ。(「東京朝日新聞」明治40年11月27日)

(二十四)▲榎坂の榎(歯痛の願懸)
旧(もと)の樹は溜池葵坂の上に在つたものだが、数年前に立枯となつて、たつた五十銭で湯屋の手に渡つて了つた、其後榎坂の下にある榎を身代りに立てゝ、歯痛に悩むものが相変らず願を懸けてゐるが、願ふ時には白山権現と念じ、痛の止つた時は房楊子を納るばかりだ、諸願多しといへども、此の位ゐ安上りのものは他になからう。(「東京朝日新聞」明治40年11月28日)

(二十五)▲上(じやう)の字さま(火傷(やけど)の呪(まじない))
幅六分長さ二寸五分ばかりの板目紙へ、上の字一字と朱印を捺(おし)たばかり、これが昔から麻布の清水家より出る、上の字さまといふ名高い御符(ごふう)だ、伝来に就てもいろいろの説があつて、河童直伝ともいひ、或は蟇(がま)から伝はつたともあるが、火に対するに水の線を引張つて来たのは、いかにも考へたものである。(「東京朝日新聞」明治40年11月29日)

(二十六)▲縁切榎(縁切一切)
板橋の通に縁切榎と称する大樹がある、願懸榎の内に於ても大立物だけに、今になか/\繁昌するが縁結びと違つて何となく殺風景だ、古い小話にも斯ういふ穿(うがち)がある、或る世話好が縁切榎へ代参を頼まれ、扨家へ還つて見たところが何時の間にか女房を盗まれて了つたと。(「東京朝日新聞」明治40年11月30日)

(二十七)▲三連(みつつながり)の鼠糞(歯痛の呪)
呪(まじなひ)の内に何が最も種類が多いかといふと歯痛(はいたみ)に関するものが一番多いのだ、其内には三連の鼠糞などといふ、随分思ひ切つた呪がある、これも一粒ものなら直にも手に入るが、いざ三連のものを捜さうとなると、近所合壁を駈廻つても一寸手に入らぬ、扨この珍品が首尾よく手に入つたなら、何ういふ方法を用ふるかといふと、飯粒と一緒に練合して紙に延し、早速痛む歯の方へ貼附けて置くのだが、ペスト流行の際などには、危険これより甚だしいものはなからう。(「東京朝日新聞」明治40年12月1日)

(二十八)▲張御符(はりごふう)(諸病)
有名なる張御符は堀の内妙法寺の祖師堂から出る、此の御符を借受けて病人の枕元に貼置き、七日目毎に剥して上へ/\と貼上る、廿一日目には速(すみやか)に病気平癒なすこと妙法の功力疑ひあるべからずとある、尤も難病長病のものに限り、三七日を過て再び新御符を受くべしといふ、寄らず触らぬ逃口上があるさうだ。(「東京朝日新聞」明治40年12月2日)

(二十九)▲底豆の呪(まじなひ)(二種)
数あるがまづ主なるもの二つだけにして置かう、一つはソツカウ/\と呪文を三遍唱へ、小刀の先にて突く真似を三度行ひ、続いて念仏を三遍唱へる、又一法は豆の上へ鳩といふ字を三字書く、たゞそれのみだが鳩が豆を食つてしまふ洒落に引換へ、ソツカウの念仏などはいかにも平凡である。(「東京朝日新聞」明治40年12月3日)

(三十)▲釣船清次(寒冒(かぜ))
新富町に釣船神社といふ小さい社がある、今は氏子もあり、祭礼も行はれるが、神体は釣船屋の清次といふ男だから面白い、此神が流行風に効験があるといふ次第は、一年清次が品川沖へ釣に出かけた所が、俄の暴(あれ)に遭遇して命から/゛\逃還つた、其時風の神から授かつた御符(ごふう)といふが図に示したものだ、吹く風と病気の寒冒(かぜ)を混同した迷信も頗る多いが、此等は大に変つて居る方である、(「東京朝日新聞」明治40年12月4日)

(三十一)▲蕎麦喰地蔵(咳一切)
浅草誓願寺中九品院の蕎麦喰地蔵は、咳一切に効験があるとて、切(しきり)に繁昌してござるが、願を懸る時には必ず蕎麦を上げ、また全快した時も蕎麦を上ることになつてゐる、其の理屈は一向分からぬが、何にしても本尊の前に蕎麦が堆く盛つてあるのが、一寸他の地蔵には看られぬ奇観だ。(「東京朝日新聞」明治40年12月5日)

(三十二)▲文銭三ツ(百日咳)
百日咳の呪(まじなひ)として最も簡単なものは文銭の三つ並(ならび)といふのだ、それは寛永通宝の一厘銭の裏に文の字のあるものを三個酒屋から取換て来る、之は酒屋のが一番好(い)いとしてある、右を入口の敷居へ三個並べて打付けておくばかり、たつた三厘で百日咳が治るとは何より安い、これがきいた日には小児科の医者は上つたりだ。(「東京朝日新聞」明治40年12月6日)

(三十三)▲黒田の天神(火防)
赤坂福吉町黒田邸の天神は火防の呪(まじなひ)に有名なもので以前は毎月廿五日に盛んな縁日が立つたものだが、数年前に社が自火を出した以来、追々参詣も減て了つたがまだ折々は参詣するものがある、火防の本元が火事を出すやうでは、何とも以て心細い次第だ。(「東京朝日新聞」明治40年12月7日)

(卅四)▲笹団子(寒冒)
毎年六月浅草蔵前の天王さまから出る、笹葉(ささつぱ)へ紅白の餅花を付けたもので、風邪を引いた時は之を笹ごと煎じて飲む、何年経ても黴の生ぬのが神事だと有がたがるものが多い、餅も笹団子のやうに搗ぬいてしまへば、黴の生えぬは当然(あたりまへ)だ。(「東京朝日新聞」明治40年12月8日)

(卅五)▲夜刄神(腫物)
渋谷長谷寺境内の夜刄神は、腫物一切の願懸に就て有名なものだ、彼岸の中日が賽日(さいじつ)とあつて、当日の賑ひはまた一方ならぬ。願懸をするものは門前に夜刄の面を買つて納める、其の面は張子製の頗る古雅なもので、わざ/\面のみを買に行くものさへある。(「東京朝日新聞」明治40年12月9日)

(三十六)▲豊川稲荷(盗難除け)
昨今売出しの赤坂の豊川稲荷は、派出者(はでしゃ)などの参詣が夥だしい所から、縁結びにでもきくのだらうと思ふものもあるが、実は色気のない盗難除けなのである、豊川さまの御利益がいよいよたしかと極つたら、警察署などはドシ/\廃しても好い訳だ(「東京朝日新聞」明治40年12月10日)

(三十七)▲弾丸除(たまよけ)の呪文(一名怪我除け)
伝説に曰く「将軍家治公御小性新見愛之助と申仁天明六年六月田安門外にて落馬せしも別条なく将軍の御聞に達し懐中の呪文を御覧に入れたり右は紀州光定公の家中より伝はりしものなり」といふ恐ろしい真面目なものだ日清日露の両戦争にも大分持て行つたものがある。(「東京朝日新聞」明治40年12月11日)

(三十八)▲三光(くわう)稲荷(犬猫の病)
日本橋区長谷川町の横町に三光稲荷といふものがある、稲荷様が犬猫の病を治すといふのが変つてゐる、芸妓子供折々参詣するさうだ、所が近来犬ころや猫子を境内へ捨る者が多いので、神官大に面喰つて「境内へ犬猫を捨ること無用」といふ掲示を出した、堂の周囲(まはり)には犬と猫の額面が隙間もなく打付けられてある(「東京朝日新聞」明治40年12月12日)

(三十九)▲駿馬塚(足の病)
よし原堤下字ゴミの駿馬塚は、足の病に効験が著るしいとて、昔から参詣が絶ないのだ、所が墓石は大阪に在る淀君のものと同形式で、いかに八幡太郎の馬だとて少々立派過る、或人は之を練馬主馬之助の墓石であらうといつた、主馬之助が此辺で討死をした事は太平記にも載つてゐる、して見ると駿馬塚は主馬塚の転訛したものであらう。(「東京朝日新聞」明治40年12月12日)

(四十)▲口入稲荷(商売繁昌)
商売繁昌の願懸稲荷も少くないがル其内にも浅草玉姫町の口入稲荷は古株の方であらう、願を懸るものは先境内に販売する土製の狐を社へ納め其代りに納つてゐる古い狐を借て来るのだ、其狐は図に示すが如き随分他(ひと)を莫迦にしたものである。(「東京朝日新聞」明治40年12月14日)

(四十一)▲あぶら石(歯痛)
京橋区南八丁堀二丁目の路傍(みちばた)に、周(まはり)三尺余高さ二尺余のあぶら石と称する自然石(じねんせき)が古くより存在してゐる、以前は表面も頗る滑(なめら)かがあつたが、数年前火災に罹(かゝ)つて油石の油も燃切り、今はガサ/\石と変じて了(しま)つた、何の理窟か分らぬが古来歯痛(はいたみ)の願を懸けるものが夥(おびた)だしい、又油石の下には石で作つた男女の首が埋めてあるといふ説もある。(「東京朝日新聞」明治40年12月15日)

(四十二)▲因果地蔵(子そだて)
浅草仁王門外の因果地蔵には、真面目な縁起もあるがいかにも平凡だ、願懸は子育一方と思ふ人もあるが何の願でも必ずきゝますとは、番人の老爺(おやぢ)が力味返つて請合ふところだ、而してこゝの番人が直ぐ向(むかふ)の粂の平内をも兼勤してゐる。(「東京朝日新聞」明治40年12月16日)

(四十三)▲有がたい御符(ごふう)(勝負事)
勝負事一切に功験の著るしい有がたい御符を一つ紹介しやう、之は図に示した呪文を自分で書けば好いので、勝負事の場所へ人しれず携へ行く時は、必らず不思議な功験があるさうだ、昨今流行の競馬などへ押出す欲張連には極めて必要なものであらうと思ふ、但し外れた時はそれまで、まだ信心が足らぬと諦める外はない。(「東京朝日新聞」明治40年12月16日)

(四十四)▲上行さま(諸願)
法華寺には多く上行(じやうぎやう)菩薩の石仏が安置してあるものだ、其内に下谷土富店(したやどぶだな)の抜寺に在るものは市内の開祖で願懸は何でもきかないものはないといふ、願ふ時には頭からざぶ/\と水を浴せかけ、願解(ぐわんほど)きのときもまた水を打かけ、持て行つたタワシでごし/\洗ふのが定法などは、何にしても暢気(のんき)極まつた次第である。(「東京朝日新聞」明治40年12月18日)

(四十五)▲血の神(血止め)
血止めの呪(まじなひ)は凡(およ)そ三十種ぐらゐも有るだらうが、その内にはまた斯(こ)んな簡短なのもある、一寸(ちよつと)指でも切つた時には、白紙を三つに折つて疵口(きずぐち)へ当て「血の道は父と母とのめぐみにて血とめてたまへ血の道の神」と唱(とな)へる、血の止ること不思議ださうだ、尤(もつと)も大傷口は此(こ)の限にあらず、早速(さつそく)外科医者へ持込むべしとの但(たゞ)し書が付いてゐる。(「東京朝日新聞」明治40年12月19日)

(四十六)▲浅茅ケ原の化地蔵(百日咳(ぜき))
一名を橋場の化地蔵といふ、浅草玉姫町出山寺(しゆつざんじ)の門脇に安置されてある、子供の風邪(かぜ)や百日咳に功験があるとて日々参詣の跡を断たぬ、一週間にて必ず全治するといふ保険が附いて居るさうだが、掛金即ち御賽銭(さいせん)を滞(とゞこほ)らせる時は、立どころに御罰(ごばつ)を蒙(かうぶ)るとは剣呑(けんのん)々々。(「東京朝日新聞」明治40年12月20日)

(四十七)▲何のくうかい(感冒(かぜ)の呪(まじなひ))
風邪の呪にも斯(か)ういふ簡単なのがある、ゾツと悪寒(おかん)を感じて嚔(くさめ)でも出た折に「風ひかばあとへもどれよ風の神、人なやませて何のくうかい」と寝言のやうなことを遽(すみや)かに三度唱(とな)へ、後また三回、肩を叩(たゝ)くのだ、決して感冒にかゝらぬとしてある、嚔の出たとき肩をたゝく習慣は古(ふるく)から行はれて居る、全く右の呪から来たものに相違なからうといふ、また「畜生」めと叫ぶものもあるが、まさか之は呪でもなからう。(「東京朝日新聞」明治40年12月21日)

(四十八)▲呼返しの呪(まじなひ)(一名足止め)
行方不明となつた人を捜し出すといふ奇妙な呪がある、図の如く記したものを、走人(はしりびと)の寝所(しんじよ)の畳の下へ敷込んでおくと、程経て不思議に其人が立還(たちかへ)つてくるさうだ、芸娼妓(げいしやうぎ)の逃亡したのや雇人(やとひにん)が行方を晦(くらま)した家(うち)によく此(この)法を用ふるものがある、山田忠兵衛氏の家などには差詰(さしづめ)持て来いと云ふ名法だ。「東京朝日新聞」明治40年12月22日)

(四十九)▲茶柱と薬鑵(やくわん)の尻
茶を入れた時に最初茶柱が立つ時は必ず其日に来客がある、尤(もつと)もこれは朝茶にかぎるのだ、また土瓶(どびん)なり薬鑵なり湯茶を注(つ)ぐ折に、間違つてよく尻を向けることがある、此時は遠からず坊主の来客があるといふ、此の迷信は余程古くから行はれてゐるやうだ。(「東京朝日新聞」明治40年12月23日)

(五十)▲疝気(せんき)の稲荷(寸白(すばく)にも)
砂村の疝気の稲荷といへば甚だ色気のないやうに聞えるが、中々穴守に負けぬ艶(あで)やかなのが参詣する、それは疝気一点張でなく寸白にも功験があるといふ如才(じよさい)のない行き方なのだ、社(やしろ)へ行て疝気の稲荷などゝいふと叱(しか)られる、今は大智稲荷といふ頗(すこぶ)る厳(おごそ)かなものである。(「東京朝日新聞」明治40年12月24日)

(五十一)▲脱衣婆(百日咳)
新宿正受院安置の脱衣婆は百日咳の願懸に有名なものだ、此像は小野篁の作ともいふが余り当にはならぬ願を懸る時にはシヤモジに久ヌ目木大明神と記して納め、再び之を受けて自宅へ持帰り、軒先へ打付けて置くのだ。(「東京朝日新聞」明治40年12月25日)

(五十二)▲夢見の呪(まじなひ)(二種)
善い夢を見た時には「南無福徳幸頂御功徳王菩薩」と三遍唱へ、また悪い夢を見たときには「おく山の根なしかつらに見えるゆめことなし草に見ゆるなりけり」と三遍唱へる時には、善を受け悪を去るといふ迷信がある之は東京のみではない古くから各地にも行はれてゐる(「東京朝日新聞」明治40年12月26日)

(五十三)▲塩甞(しほなめ)地蔵(勝負事)
浅草公園に塩甞地蔵といふ剥落した石像がある、之は諸病の願懸が利(き)くとしてあるが、実は賭博に霊験があるのださうで、深夜人知れず参詣するものがある、勝負事の願をかける時には、先づ塩を供へた後に銭を以て数回石像を叩くのだ、其の唱へが面白い「塩甞地蔵まだ利かぬか」コツ/\/\とやらかす、為に石像は剥落して一日増(まし)に痩(やせ)て行く。(「東京朝日新聞」明治40年12月27日)

(五十四)▲妙国寺の仁王(産一切))
品川妙国寺の門番に立派な仁王が居る、本尊はお祖師さまだが一向振はない、何時頃からか分らぬが株を門番に奪はれてしまつた、願懸(ぐわんがけ)は産の一方で常に参詣の跡を断たぬ、不思議なのは仁王から受る産の帯の内、白いのを授かると男子が生れ、赤いのを授かると女子が生れるといふが、余り当になったものではない、(「東京朝日新聞」明治40年12月28日)

(五十五)▲初茶(二種)
茶の入れたるに注(つ)ぐ初茶のやうなものにも迷信がある、派出商売の者は福茶と称して歓迎するに反し、普通一般は人に憎まるゝとて飲まぬものが多いのだ、茶には塵芥(ほこり)がたかつてゐると共に、夥(おびた)だしいバクテリヤが附いて居る、之(これ)を思ふと忘れても福茶などは飲まぬ方が好い。(「東京朝日新聞」明治40年12月29日)

(五十六)▲お石様(一八(チーハ)の呪(まじなひ))
北豊島郡王子稲荷の境内にお石様と云ものがある丁度沢庵石の大(おほき)さのもので、小(ちひさ)な祠(ほこら)の内に祭つてあるのだ、之(こ)れが一八(チーハ)の見得(けんとく)になるといふので、内々参詣するものがあるのは怪(け)しからぬ、見得を看るには先づ其の石を抱へて揚(あが)るだけ揚て見る、例へば二十回揚れば二十番を買ふので、当ることも不思議なら、また当らぬことも不思議であるさうだ。(「東京朝日新聞」明治40年12月30日)

(五十七)▲餓鬼祭(長病の呪)
長病の人は此(こ)の符の中へ鬼といふ字を餓鬼の数程書くのだ、夫(それ)から不動の陀羅尼(だらに)百遍を唱へて河へ流す、いかなる長病も不思議に全治するとある、餓鬼の数は子の年は一人、丑八人、寅七人、卯五人、辰二人、巳五人、午五人、未九人、申五人、酉五人、戌二人、亥二人、未歳のものは罪が重(おもい)と見えて、一番餓鬼が余計に附いてゐる。(「東京朝日新聞」明治40年12月31日)

(五十八)▲柴又の帝釈(諸願)
何(ど)んな無理な願(ぐわん)を懸けても納受ましますといふのがここの自慢だ、其(そ)の代り間違つたことをすると直(すぐ)に罰(ばち)があたるさうだが、まだ願を破つて盲目や跛になつたといふ噂(うはさ)も聞かぬ、帝釈の御影(みえい)は元道具屋か屑屋(くづや)が持込んだものだが、中山法華経の伝来には違ひないさうである。(「東京朝日新聞」明治41年1月1日)

(五十九)▲元日、三ケ日、松の内
元日には拭掃除(ふきさうぢ)をするものでない、福を掃出(はきだ)して了(しま)ふといふ、これが商家一般に行はれる、又三ケ日の内に勝手道具の名を口にするものでない、出世を妨(さまた)げるとある、夫(それ)から松の内に必ず入浴すべきものとしてある之(こ)れは感冒(かぜ)を引かぬ呪(まじなひ)であるさうだ、此(こ)の内に元日の迷信は衛生上甚(はなは)だよろしくない、速(すみや)かに打破すべきものである、其(そ)の代り松の内の入浴は大(おほい)に励行して毎日でも浴(あび)て貰(もら)ひたい。(「東京朝日新聞」明治41年1月3日)

(六十)▲感冒除(かぜよけ)の呪(まじなひ)(二件)
感冒を引かぬ呪の内簡短なものを紹介しやう、月始め三日の内にとろゝ汁を拵(こしら)へて食うのと、モウ一つは紺の木綿糸を手首或は足首へ結ぶのだ、糸を結ぶことは近来余り流行(はや)らぬが、とろゝ汁は或る一部には今でも行はれてゐる、とろゝ汁は元来滋養に富んでゐるものだから、斯(か)ういふ迷信は打壊(うちこは)す必要はない、どちらかといふと継続して貰(もら)ひたい方だ。(「東京朝日新聞」明治41年1月5日)

(六十一)▲田畑の仁王(諸願)
田畑村東覚寺の本尊は不動明王にて八十八ケ所の遥拝所として有名なものだが、こゝの門番にまた名代の願懸仁王が居る、繁昌する点に於ては到底親分の不動は足許(あしもと)へも追付かぬのだ、願を懸るものは門前の茶屋に赤色の紙を買つて仁王へ納める、何の理窟かさつぱり分らぬが、今は仁王全体が赤紙で貼潰されてノツペラボウになつてゐる。(「東京朝日新聞」明治41年1月6日)

(六十二)▲寒の入の迷信(二件)
今日は寒の入である、之(こ)れに就(つい)てまた迷信があるのだ、早く起て初水を一ぱい飲むと風邪を引かぬとある、また此(こ)の日過つて油を滴(こぼ)すと火に祟(たゝ)るといふ、之れを除けるには油を滴した当人が水を浴て不動の陀羅尼を唱へる、但し裸体(はだか)になつて浴るのが難儀なら、茶碗の水か何か一寸(ちよつと)頭へかけても好(い)いとは、無性者(ぶしやうもの)の考えた簡便法であらう。(「東京朝日新聞」明治41年1月7日)

(六十三)▲疥癬(たむし)の呪(まじなひ)(三件)
疥癬(たむし)の呪にもいろ/\あるが、簡単なものを二つ三つ紹介しやう、佳(い)い墨をよく磨(すつ)て患部へ鬼といふ字を三つ書く、夫(それ)から飴(あめ)を以て患部を撫(な)で其(そ)の飴を直(すぐ)に犬に食はせる、モウ一つは藁(わら)を丸くして疥癬に冒(をか)された場所だけの大さとし、之(これ)を結んで往来に面した樹(き)の枝に懸けて置く、まだ/\いくらも有るが好(い)い加減にしておかう。(「東京朝日新聞」明治41年1月8日)

(六十四)▲掌(てのひら)へ文字(金と人)
掌の痒(かゆ)いことがよくあるものだ、其(その)時に指で人といふ字を三字書いて置く、必らず近い内に金が手に入るといふ、また貴人(きにん)の前とか或(あるひ)は自分が恐ろしいと思ふ人の前に出る時は、掌へ人といふ字を三字指で書て出る、決して其(そ)の人に呑(の)まれるやうなことは無いとある、前者は受合はれないが、後者は多少効験があるに相違ない。(「東京朝日新聞」明治41年1月9日)

(六十五)▲青山の庚申塚(諸願)
青山権田原(ごんだはら)の練兵場寄りに古い庚申塔がある、此(こ)れまでは邪魔もの扱ひにされて居たものが、ツイ二三年このかた滅切(めつぽふ)はやり出して、ヤレ無尽が当つたとか、医者に持余された病気が全快したとか、夫からそれへと御利益の噂が伝はつて、わざ/\近在から参詣に来る者さへあるが、流行る塩梅は今が頂天であるらしい。(「東京朝日新聞」明治41年1月10日)

(六十六)▲富者になる呪(まじなひ)
貧いものが富貴にならんと思はゞ、七月七日富る人の庭の土を人知れず持帰り、我竈(かまど)を塗れば翌年から富貴になるとある、また真乳山(まつちやま)の聖天の像を受けて毎夜人知れず油画にすると、必ず近い内に大富限になるさうだ但し之は一代身上で子孫は乞食になるか何だか分からぬとは情ない、今の紳商某々等は今に内々是の油画をやつてゐるとは苦々しい。(「東京朝日新聞」明治41年1月11日)

(六十七)▲虫除(むしよけ)の呪(まじなひ)
五月五日の朝朱砂(しゆしや)を以て白紙へ茶といふ字を書き、之(これ)を門の柱へ逆(さかさ)に貼付(はりつ)けて置けば蛇や虻(あぶ)の家内(かない)に入るを除(よ)け、また同じ朝儀方といふ二字を書て門戸へ逆に貼る、之は蠅の家内に入らぬ呪であるさうだ、市内には近来余り見受けぬが、近在へ行くとまだ/\この風が大分残つてゐる。(「東京朝日新聞」明治41年1月12日)

(六十八)▲鯖(さば)いなり(歯痛)
鯖稲荷とは芝日蔭(ひかげ)町通りに鎮座在(ましま)す日比谷神社の通称である。歯痛専門のはやり神とあつて願を懸るものは鯖を断つことになつてゐる。全快の上は鯖を描いた絵馬を納るのだが昔と違つて近来は手療治ぐらゐで痛みは直(す)ぐ止まるから、わざ/\鯖を断ちに行くもの好も極めて少なくなつた。(「東京朝日新聞」明治41年1月13日)

(六十九)▲咽喉(のど)に骨の立たとき(三件)
食事に際し咽喉に魚の骨が立つたときの呪(まじなひ)もいろ/\あるが、多く行はれてゐるのは、余処(よそ)から象牙の撥(ばち)を借りて来て、下から三遍咽喉をこき上げる。また一法は気を静て鵜(う)の咽喉(のど)/\と三遍唱へながら、飯のかたまりを鵜呑(うのみ)にする。念仏は兎も角も飯のかたまりは確に効能があるやうだ。(「東京朝日新聞」明治41年1月14日)

(七十)▲泥棒除(よ)け(二件)
泥棒除の呪(まじなひ)に斯(かう)いふのがある。左の符を表の方と裏の方へ向つて書く真似をして寝る。泥棒が這入(はひり)ても決して物を取らずに出て行く。また留守へ這入れば其の泥棒は必ず其処(そこ)へ立すくみになつてしまふ。まことに不思議の至り奇妙の次第とある。尚(な)ほ仁王の守護札(まもり)を入口に貼るのも効能があるさうだ。秘すべし/\(「東京朝日新聞」明治41年1月15日)

(七十一)▲首無し地蔵(諸病)
品川南馬場の京浜電車線路寄に首無し地蔵といふものがある。いかなる重病も願(ぐわん)を懸る時は立(たちどこ)ろに平癒(へいゆ)するとあつて、東京からわざ/\参詣に行く者さへもある。本尊は首の取れてゐるつまらぬ地蔵だが、御利益は灼然(いやちこ)なものだといふ大評判だ。願解きには石で拵(こしら)へた首だけを新調して納(をさめ)るのだとは、地蔵も多いが一寸(ちよつと)変つてゐるよ。(「東京朝日新聞」明治41年1月16日)

(七十二)▲起たい時に起る呪(まじなひ)
寝るときに指にて、左の手に大の字を三字書て舌にて嘗(な)め、また「につけんふどうゆんたいにち」と枕へ書く。起たい時に不思議に眼が覚(さめ)るとある。また一法は「うちとけてもしもまどろむ事あらばひきおどろかせ我まくら神」と寝言染(じみ)た名歌を三遍唱へる。これは大事の起つたときにも眼が覚るとは調法/\。(「東京朝日新聞」明治41年1月17日)

(七十三)▲荒神(くわうじん)欺(だま)し(指の怪我(けが))
指の怪我は兎(と)かく化膿(くわのう)したがるものだ、之(これ)を化膿せぬやうに早く癒(なほ)す呪(まじなひ)がある。台所の荒神を拝して「お焚上(たきあげ)をすると盟(ちか)ふ。また一法は竈前(かまゝへ)の附木(つけぎ)一枚を十一の数に折り、三枚併(あは)せて三十三の数に折つて竈に燃(もや)す。前のお焚上はたゞ盟ふ丈(だけ)で、謂(い)はゞ荒神を欺(だま)して置くのみだとは洒落(しやれ)てゐる。(「東京朝日新聞」明治41年1月18日)

(七十四)▲亀戸(かめゐど)の牛様(金ができる)
亀戸天神の境内に名代(なだい)の牛様といふものがある。金を欲(ほし)がる者がよく願(ぐわん)を懸けるが、賽銭(さいせん)を投げる時に、牛の頭の真中に銭の載(の)る時は、近いうちに運が開くとあつて、欲の浅くないものが巾着銭(きんちやくぜに)を叩(はた)くことがある。賽銭取りの手段も此(こ)の位(くら)ゐ巧(たくみ)なものは他(ほか)にあるまい。(「東京朝日新聞」明治41年1月19日)

(七十五)▲凍傷(しもやけ)の呪(まじなひ)(烏瓜へ姓名)
凍傷の呪に斯(か)ういふ手軽なものがある。烏瓜(からすうり)へ姓名及び生年月日を記(しる)して、台所の荒神(くわうじん)へ捧(さゝ)げて置く、七日の内に必ず全癒(ぜんゆ)するさうだ。手の荒れた時などは之(こ)れで洗ふと効能があるともいふ。元来烏瓜の根より採(と)つた澱粉(でんぷん)は洗滌(せんでき)の料(れう)になる、此(こ)の呪も或は其(そ)の辺から来たものかも知れぬ。(「東京朝日新聞」明治41年1月20日)

(七十六)▲嬬(あづま)の森の樟(くすのき)(道楽除(よ)け)
南葛飾の嬬の森の嬬神社には名代の大樟(おほくすのき)がある、樟(くす)は虫除(むしよけ)の功があるので、子供の虫に付会して祈願を籠(こめ)る者が多い。夫(それ)よりもまだ滑稽なのは、道楽除(だうらくよけ)の呪にもなるとて、樟の皮を剥(は)ぐ者が年一年に多くなつた。そこで社務所も堪(たま)らず之(これ)を御符(ごふう)にして売出した。所が盛んにお客があるさうだ。思召(おぼしめし)のお初穂(はつほ)位(ぐらゐ)で放蕩(だうらく)が止(や)めば、これほど安いものはない。(「東京朝日新聞」明治41年1月21日)

(七十七)▲蜂(はち)に刺されぬ呪(まじなひ)
蜂に刺されぬ呪に「蜂の虫させば刺せ、刺さねば刺すな、あびらうんけんそわか」と三度唱(とな)へる。又刺された時に、足許(あしもと)の石でも瓦でも直(す)ぐに裏返へすと、不思議に痛(いたみ)が止まるとある。昔砂村に喜三郎といふ男があつて、この呪を授けてゐたさうだ。お客が来ると蜂の巣を叩(たゝ)いて、蜂群(はうぐん)の中で呪文(じゆもん)を唱へて見せたといふ、之(こ)れには必ず何か山があつたに相違ない。(「東京朝日新聞」明治41年1月22日)

(七十八)▲火事の(まじなひ)
火事の呪に「焼亡(せうばう)の柿の本(もと)まできたれどもあか人なればそこで人丸」と書て、扉(と)の裏へ貼る時は火の粉(こ)も来ぬとある。また一法は屋根へ上つて、婦人の褌(ゆもじ)で煽(あふ)ぐ時は、不思議に風が変るさうだ。此(こ)の呪はどつちも中々振つてゐる。夫(それ)よりも褌(ゆもじ)で旗をこしらへ、右の名歌を書たなら、一層効能が多からう。(「東京朝日新聞」明治41年1月23日)

(七十九)▲疱瘡(はうさう)除(よ)けの呪(まじなひ)
昨今天然痘流行の兆があるので、例の「越前国猪尾峠(しゝをたうげ)之茶屋之孫赤子(まごしやくし)」と書た御符(ごふう)を入口へ貼たり、または子供に懐中させるものがある。また枇杷(びは)の葉を二つに折て、其(そ)の一半(いつぱん)と共に小豆(あづき)十粒大豆十粒を煎じて飲ませるものもある。其(そ)の呪文が面白い「ごんによごん/\/\」と(「東京朝日新聞」明治41年1月24日)

(八十)▲人見知りをせぬ呪(まじなひ)
子供の人見知りをせぬ呪に斯(か)ういふ滑稽なのがある、おかめが左褄(ひだりづま)をとつて居(を)る図を描(かい)て台所の荒神(くわうじん)へ納め、毎朝(まいてう)礼拝(らいはい)すると共に浄(きよ)い水を供へるのだ。之(こ)れはおかめは愛嬌があるといふ所から来たもので、荒神へ納めたり水を供へたりするのは、全く勿体(もつたい)を附けたものに他ならぬらしい。(「東京朝日新聞」明治41年1月25日)

(八十一)▲田宮坊太郎(諸願)
谷中の青龍院といふ寺に仇討で名代の田宮坊太郎の墓がある。棹石(さをいし)の右方(うはう)には正保二酉歳三月二十一日、正面には空仁大徳俗名田宮坊太郎と彫(ほり)附け、形は五輪の異種に属し、式も次第に正保時代のものと思はれる。数年前には参詣も夥(おびた)だしく、幟(のぼり)を樹(た)てたり線香を納めたりする物好で賑(にぎは)つたが、今の所へ移転以来、バツタリ火の消たやうな有様になつてしまつた。(「東京朝日新聞」明治41年1月26日)

(八十二)▲狐つきを落す稲荷
本所横川能勢妙見の末社に名も知れぬ一つの稲荷がある。これが狐つきに不思議な霊験があるといつて、以前は中々流行(はやつ)たものだが、近来は狐につかれるやうな間抜けな人間も少なくなつたので、昔の面影はまるで失つてしまつた。併(しか)し稲荷も多いが、狐つきを落す稲荷は珍である。穴守(あなもり)や王子がいくら威張つても、此(こ)の向ふはとても張れまいといふ噂(うはさ)だ。(「東京朝日新聞」明治41年1月27日)

(八十三)▲味噌団子の黒焼(風邪の呪)
風邪の呪(まじなひ)に斯(か)ういふのがある、一寸位の大さに味噌団子をつくり、之(これ)を黒焦になるまで焼て、番茶の熱い中へ放り込む。それを家内中順々に嗅(かぎ)廻(ま)はすのだが、中々佳(い)い香(か)のするものだ、嗅(かい)だあとは四辻へ持て行つて捨てしまふ、但し還(かへ)る時に振返つては利(き)かなくなるといふ、これ丈(だけ)の勿体を付けた所がいかにも呪らしい。(「東京朝日新聞」明治41年1月28日)

(八十四)▲蒟蒻(こくにやく)閻魔(眼病)
小さな閻魔(ゑんま)ではあるが小石川初音町の蒟蒻閻魔といへば、昔から中々巾(はゞ)の利(き)いたものだ。眼病の祈願に霊験が著るしく、願懸をするものは必ず蒟蒻を供へることになつて居る。伝説によれば蒟蒻は砂を払ふとある。眼の中の砂を払ふといふ付会(こじつけ)かも知れぬ。(「東京朝日新聞」明治41年1月29日)

(八十五)▲八字の秘密
八字の秘密といふと、咒(まじない)の方では中々八ケ間(やかま)しいものだが、因由(いはれ)を聞いて見ると有がたくも何ともない。貴族の前に出る時には人知れず天の字を手の内に書く。深山或は広原を行く時には虎といふ字。戦地に臨む時は王の字。毒酒毒薬を飲ませられたと知つた時は命の字。裁判或は勝負事には勝の字。流行病の家を訪はんとする時は嚔の字。案内を知らぬ家へ行くとき或は大酒を強られた時には水といふ字を書く。(「東京朝日新聞」明治41年1月30日)

(八十六)▲子育観音(上野清水堂)
上野清水堂の子育観音といふと中々名代のものだが、其の願懸が一寸面白い。子の無いものは御符(ごふう)と人形を受て来て、之を仏壇或は神棚へ供へて毎朝「南無大悲利生観世音菩薩使生福得?患之男使生?生有相之女」と唱へて拝む。神仏混淆だから乱暴である。子供が生れたら人形を其の子の?に附け、また御礼参りには二体の人形を納めることになつて居る。(? は判読不能文字)(「東京朝日新聞」明治41年2月1日)

(八十七)▲九つ団子
道楽除(だうらくよけ)の呪(まじなひ)にも極めて手数のかゝらぬのがある。併(しか)し之れは十歳未満の子供に限られてゐるので、とても亭主の道楽などを癒(なほ)す功力(くりき)は無いさうだ。白団子九つを拵(こしら)へて不浄場神へ供(そな)へ、之れを悉(ことごと)く子供に食べさしてしまふ。其の子供は長ずるに従つて、石部金吉かなかぶとの堅人(かたじん)になるとあるから有りがたい。(「東京朝日新聞」明治41年2月2日)

(八十八)▲福大黒(一名貧乏大黒)
大黒の御影(おすがた)を二千枚摺(すつ)て、一軒に二枚づゝ配り、千軒に配りしまふ時には金持になるとある。近来これが大流行にて、折々この大黒に舞込まれる家がある。包の中には「此二枚の御影をたんすの抽斗(ひきだし)の内に入置き吉事あらば一枚は表具し甲子に祭り一枚は板(はん)にすりて二枚宛(づゝ)千人に施すべし益(ますます)吉事を招く」こんな断り書が入れてある。併(しか)し之(こ)れは方便で実は配りつけた家の福を此方(こつち)へ奪ふのであるさうだ。この事を知つて居る家にては舞込まれるが否(いな)や直(すぐ)に掃出して了(しま)ふ。これもまた担ぐといふ一種の迷信だから面白い。(「東京朝日新聞」明治41年2月3日)

(八十九)▲眼病の呪(まじなひ)(二件)
年越の豆を撒(ま)くとき初豆を別に取り置き、之(こ)れを自分の年齢(とし)だけ数へて井戸へ投込(はふりこ)む。また味噌漉(こし)を井戸へ半分見せ『何(ど)うぞ眼病を早く治して下さい』と祈念し、全癒した時には味噌漉を全部井戸へ見せる。人間の眼を?の目へ付会(こじつけ)た所が滑稽だ。(?は判読不能文字)(「東京朝日新聞」明治41年2月4日)

(九十)▲泥棒除(よけ)と臭気(しうき)除(茶碗伏せ)
泥棒を除(よ)ける呪(まじなひ)にもいろいろあるが、茶呑茶碗でも飯茶碗でも密(ひそか)に火鉢の灰の中へ埋めて置く、但しこれは逆(さかさ)にしなければ効能がないさうだ。また掃除屋の来た時に臭気を除けるには茶碗一ぱい水を盛り、之を盆の上に逆(さかさ)に伏せて置く、このまじなひは古くもあり従つて分布も中々広いのである。(「東京朝日新聞」明治41年2月5日)

(九十一)▲狂犬除(よけ)の呪(まじなひ)
狂犬或は狂犬に出会た時に斯(か)ういふ有りがたい歌がある「われは虎いかになくとも犬はいぬしゝの歯がみを恐れざらめや」これを三遍唱へる。それでもまだ吠(ほえ)つくなら、右手の親指から数へて「いぬ、ゐ、ね、うし、とら」と読みながら五指を握る。之(こ)れで利(き)かぬ時は四つ這(ばひ)になつて、遠吠の真似をするのだとは莫迦々々しい。(「東京朝日新聞」明治41年2月6日)

(九十二)▲疣(いぼ)の呪(まじなひ)
疣を取る呪には先づ白茄子(しろなす)を仏前へ供へ、其(そ)の茄子を竹の箆で二つ切となし、此(こ)の切口を以て疣の上を数回磨(こす)つて、扨(さて)その後(あと)を元の通りに合せて縛(しば)り付け、地中に埋(うづ)めて置く。但しこれは水気(すゐき)のある所へいけぬと功験(こうげん)がないさうだ。斯(こ)んなことをせぬとも、薬力で疣を取る位のことは、今日では何でもないことである(「東京朝日新聞」明治41年2月7日)

(九十三)▲貧乏神
小石川大六天の境内に貧乏神といふ名代(なだい)の流行神(はやりがみ)がある。本名は太田姫稲荷といふので、社(やしろ)も立派なら社司もちやんと控へてござる。これを貧乏神とはいかにも勿体(もつたい)ないやうな気がする。願を懸る時には『永々御厄介になりましたが今日(こんにち)はお礼に出ました』と唱(とな)へてお札を頂いて来る。つまり今までは貧乏神に可愛がられたが、今日限り之(こ)れを返上するといふ意味であるさうだ。(「東京朝日新聞」明治41年2月8日)

(九十四)▲子育の呪(まじなひ)(五件)
子育の呪で最も広く行はれてゐるのは、生た子にあぐりといふ名を附ける。それに女子ならば男の名、男子ならば女の名を附けるといふ呪もある。また手数のかゝるのでは、三十三人の子供の着ものゝ布(きれ)で衣服を拵(こしら)へる法もある。其他神仏の草履取になる祈願を籠たり、枕元に犬張子を置くといふ迷信もある。(「東京朝日新聞」明治41年2月9日)

(九十五)▲落馬と船暈(ふなよひ)の呪(まじなひ)
馬に乗るとき手綱を取る前に、人知れず掌(てのひら)へ南といふ字を三回書て乗る。又孔雀の羽を懐中するも好い。不思議に落馬せぬとある。始めて船に乗る時には、塩を一つまみ臍(へそ)へあて、其上を紙にて貼つて置く。是も不思議の効能があるさうだ。落馬の方はチト危ないが、一摘(ひとつまみ)の塩の呪(まじなひ)は、気の持ちやう一つにより、多少効験(きゝめ)があるかも知れまい。(「東京朝日新聞」明治41年2月10日)

(九十六)▲こぐら返の呪(まじなひ)
こぐら返りをした時には、木瓜(ぼけ)を以て痛(いたむ)ところを静に撫(なで)る。奇妙に治るさうだ。また水泳中などにこぐらの返つた時は、迚(とて)も木瓜などの間に合ふ訳が無いから、口の内にて木瓜/\/\と三遍唱へ、痛んで引吊る所を静かに撫る。また念仏四十八遍を唱ふるも功があるといふが、そんな真似をして居る内には、御当人が先(ま)づお陀仏になるだらう。(「東京朝日新聞」明治41年2月11日)

(九十七)▲鼻血止の呪(まじなひ)(四件)
鼻血止の有りがたい呪文に「あつたの宮の樹(こ)がくれに色あるむすめとまらざりけり」また「是好良薬今留在止」ともある。それで止らぬ時は額に「今日血凶(こんにちちきよう)」と書く。又?法として男の鼻血には女が右の手にて右の乳房を握る女の鼻血には男が左の手にて左の睾丸を握る。此(これ)が不思議に功(こう)があるとは滑稽々々。(「東京朝日新聞」明治41年2月13日)

(九十八)▲茶の樹(き)いなり(眼病)
市ケ谷八幡境内の坂の中段左方に茶の樹稲荷の祠(ほこら)がある。眼のわづらひあるものがよく願を懸るが、七日の間は茶断(ちやだち)をする。平癒の上は幟(のぼり)を一本奉納するばかり。大明神の輩(ともがら)は『正一位茶樹稲荷大明神』と念じ、右の如く茶断をして、平癒の後に参詣して置けば、決して再び眼病に罹(かか)らぬとは旨(うま)く拵(こしら)へた。(「東京朝日新聞」明治41年2月14日)

(九十九)▲瘧(おこり)を落す呪(まじなひ)(二件)
門口(かどぐち)へ灰を撒(まい)てよく均(なら)し、其上へ病人を立たせて足形を取り、其の跡の灰は掻(かき)集めて清浄(しやうじやう)なる白紙に包み、近傍の川へ持つて行つて流してしまふ。又一法は病人を屋根へ載せ、突落す真似をして『落ちた』と高く叫ぶ、『また霜おちて松の葉かろきあしたかな』此の句を符に認(したた)め、おこり日の払暁(あけがた)に水にて飲ます、これも不思議の功があるとは悪く洒落てゐる。(「東京朝日新聞」明治41年2月15日)

(百)▲放蕩(だうらく)除(よ)け(浦里時次郎の墓)
深川猿江の慈眼寺に、明烏で有名な浦里時次郎の墓がある。今は悪停霊神などゝいふ不思議な神号が附けられ、放蕩除けの願が利(き)くとて参詣する物好がチラ/\ある。最初先づ一本の塔婆を納め、願が叶つたら之れを二つ折にしてまた納める。これが御霊参りのしるしになるのだとは一寸変つてゐる(をはり)(「東京朝日新聞」明治41年2月16日)

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